野生のほし 〜野に舞う言葉が住まう場所〜
皆さんは「野詞」というものをご存じですか。
その言葉は私の日々綴っている雑記帳の端っこに、記されていたものです。
思いがけず目に留まったのですが、書いたときのことはすっかり忘れていました。
それはちょうどこの世界において希少とされる生物を、リストにしてまとめあげようと試みていたページでした。
ノコトバと読むのが正しいかと問われれば、おそらく。と、答えるほかありません(ノジや、ヤシ、ということもありえますね!)。
それというのも、私はその野詞なるものをしゃべったことも、聞いたこともなく、その存在を確かなものにする経験すらないのです。
ある時ある場所でそれらしきものを垣間見た出来事を除いて。
それはちょうど不慣れな大都会を訪れたときに、そびえるビルディングの間をすり抜けるように飛び、
混雑極まる地下鉄のプラットフォームの隅っこを、もぞもぞと這いまわり、
朱に染まったうすむらさき色の雲上を、群れを成して越えていくところでした。
言うなれば言葉が虫のように動きまわり、この世界のあらゆる環境で自生しているのです。
野鼠や野兎と同様に、野に生きる言葉というものが存在するということは、ありえないことではないでしょう。
高度に成長した社会のもと膨大な人間たちの間で、塵ほどの大きさになるまで行き交い擦り減って、くたびれた言葉たちの声はとても小さいものです。
そんな言葉たちの行く末を推し量るならば人間のもとを離れ、静かな原野に帰っていった、というわけです。
野生化した言葉たち(ここで言う野詞)は、伝達における道具としての意味や機能から解き放たれ、
その言葉の持つ根源的な骨格が、空想の域を超えるかあるいは超えないか、とにかく予想だにしない変異を遂げて、ここに発現したものです。
夕焼け色のブランコからとべば、ヘリコプターがとんぼになった
かなしく、たのしく空にうたえば、メガヘルツが涙になった。
我をわすれておどったら、鋼鉄のママが気ままになった
秋の湖畔がしずまれば、スーツの男が不格好なカッコーになった
わずかなパラフィンに火がともれば、アラビアの宮殿が夜空になった
はげしい時流をただよえば、サーフィンボードがくじらになった
風を追いかけはしったら、スーパーカーがお馬になった
恥をしのんでかくれたら、核シェルターが岩屋になった
この度、皆さんの前に表された作品は、動詞の野詞たちです。
常に動き続ける世界のなかで起こる運動や作用をあらわす動詞を、装身具としてかたちにすることを試みました。
その実際のかたちを考えたとき、まずイメージできることは、第一にとても小さいこと。
第二に葉っぱのように薄く、平面的であること。
第三に抽象化されながらも、その言葉の持つ運動がジェスチャーであらわされていること。
それは、薄い銀板を細い糸鋸で切り取り、単純な点と線のみでデザインすることから始まりました。
平面的と言ってもノートに絵で描いている時点と、金属で仕上げた時点とでは、その見え方は変わってきます。
平面が立体となるわけですから、仕上がりには奥行きとアングルが存在します(つまり俯瞰やあおり、彼らに横顔や後ろ姿が生まれてしまうのです!)。
正面はよろしいが後ろがダメ、
右は悪いが左はまし、
角や辺がちょっと乱れているなどなど。
それに加えて極小のサイズときたもので、これには相当の苛立ちとため息が、貧乏ゆすりとともに沸騰するのです。
ずっとノートの上で過ごしていたいと思うほどに。
私たちの国では言霊と呼ばれ、人間が作り出した道具にも命があって、
私たちの知らないところで自律的に動きはじめる、という考えは古くから存在しますね。
この8つの言葉を装身具にするにあたって、見つめ続けていると各言語が、ひとつの生き物に見えてくるような印象的なキャラクターを宿したい。
そんな思いでデザインしました。
人類滅亡後か、はたまた人類史以前の原野に舞う言葉の魂が、虫や植物のようにはっきりと視覚化している世界があったら。
というイメージで野生のほしと名付けました。
是非、手にとってもらえたらと思います。
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