空に思う
半信半疑で毎日を生きている。半分がほんとうで、半分が嘘の世の中だ。一方で現実に起こった事は、すべてほんとうのことであると信じてやまない人々がいるが、そんなのは嘘だと思っている。ほんとうの領域は半分だ。
つまりこの世の半分が嘘なら、係るその人生においては、美しい嘘のつき方と飲み込み方が問われている。それは空想をする力だと思う。空想とは自分の空を描くことに他ならない。要は遊びの一種だろうが、単なる暇つぶしではない。考えつく限りにおいて最も意義のある暇つぶしである。人間いつ死んじゃうかわからないものだから、遊んでみる価値はあるのではないか。
我々現代人が現実として信用しているものは、変わることのないものだ。不変のものこそが真実のひかりだと言わんばかりだが、世界は常に変わり続けている。つまり、ほんとうも、嘘も、動き続ける。時に入れ替わったりもする。昨日の敵は、今日の友。人間も変わり続ける。変わり続け、動き続けているものを、とらえることはむずかしい。
ほんとうのことを見つけるために、ありったけの嘘を空に構築する。心のままに描いた純真な嘘は、浮雲のごとく千変万化する生き物になって現れると信じて。
そうと決めたら目を閉じる。ゆっくりと発進した想いの端が風にたなびく。その時にどこかで聞いた声が耳をかすめる。世間から逃げていないか、目の前にある現実を見よ、と。人間社会における決まりごとや正しさが今、飛び立たんとする想いの足をつかむ。しかしそれにとらわれることはない。所詮、追っ手はまぼろしだ。すでに翼をひろげたイマジネーションに、地上の法則は及ばない。静かに風が立ち、空想は音もなく離陸する。
何かが飛び立つには滑走路が必要だ。それはその人その人によって特定の場所がある。我が少年時代までさかのぼることウン十年。僕にとっての滑走路といえば、家屋の屋根の上だったり、時に草むらだったりした。大人たちは誰しもが忙しい忙しいと言っている。到底そんな風にはみえなかったが、そんな善良に生きる多忙な現代人を尻目に今日もぷらぷら、だが真剣に青の虚空を見つめる。
あらゆる固定観念をほどきながら空へと飛び立つ。空はこの世のもうひとつの世界である。それぞれの人生の中で拾い上げた知識や経験が、その世界の土壌となって発展していく。それはとても気高く貴い時間だった。人間は時にこの世の筋書きに感性でもって抗うことと、孤独な空を旅する時間が必要だと思う。
多くの大人たちは、かつての少年少女を忘れていく。僕もその例外ではなく世俗の時間に追われ右往左往するだけの、不埒な大人になってしまったが、帰らざる遠い日の記憶をたどって、今日も空想の滑走路に立つ。
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